ウィリアム・フォークナーについて Faulkner, William Cuthbert (ウィリアム・カスバート・フォークナー、1897-1962) (1)誕生 ウィリアム・カスバート・フォークナーは、1897年9月25日に父マリー・カスバート・フォークナー(Murry Cuthbert Falkner)と母モード・バトラー(Maud Butler Falkner)の長男として、深南部ミシシッピ州北東部のユニオン(Union)郡ニュー・オールバニー(New Albany)に生まれた。1898 年に父の鉄道の仕事の関係で北隣りのティパ(Tippa)郡リプリー(Ripley)に移り、1902 年に両親とユニオン郡の西隣りのラフェイエット郡(Lafayette County)オクスフォード(Oxford)に移住し、終生そこを故郷として、彼の作品の主要舞台である架空の土地ヨクナパトーファ郡(Yoknapatawpha County)ジェファソン(Jefferson)の原型として活用した。フォークナー文学の全体的世界は長編、短編、詩集などを総計すると150編ほどにもなるが、ヨクナパトーファ・サーガ(Yoknapatawpha Saga)と呼ばれる豪華絢爛たる世界は、およそ90 編の長・中・短編小説や戯曲からなり、約3,000人もの人物が登場すると言われるフランスの文豪オノレ・ド・バルザック(Honor* de Balzac,1799-1850)の全体小説『人間喜劇』(La Comedie humaine, 1842-55)の壮大な宇宙にも匹敵するものである。 フォークナーは19世紀末生まれのフィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald, 1896-1940)やヘミングウェイ(Ernest Hemingway,1899-1961)の同世代として、1910年代から20年代にかけて第1 次世界大戦という激変を契機に隆盛し、ジョイス(James Joyce, 1882-1941)やT. S. エリオット(T. S. Eliot, 1888-1965)たちが先導役を果たしたモダニズム(Modernism)文学の推進者となった。いわゆる「失われた世代」(The Lost Generation)の作家として、ヘミングウェイやジョン・ドス・パソス(John Dos Passos, 1896-1970)たちとともに、アメリカ文学を世界の地方文学からコズモポリタン的な桧舞台に引き上げた功績は大である。 (2)少年時代 1905 年に全校生が白人の小学校に入学し、家庭での読み物としてはディケンズ(Charles Dickens, 1812-70)、トウェイン(Mark Twain, 1835-1910)、クーパー(James Fenimore Cooper, 1789-1851)、南北戦争(The Civil War)ものなどの文学に親しんだ。将来は「曾祖父のような作家になりたい」(Blotner[1974]105)と彼に言わしめたそのウィリアム・クラーク・フォークナー(William Clark Falkner, 1825-89)は、スコットランドからの移民の子孫で、まだ新興のフロンティアであった1840 年代初期のリプリーを舞台に活躍し始め、晩年にはベストセラーのロマンス小説『メンフィスの白い薔薇』(The White Rose of Memphis, 1881)などの作家として成功した。しかし彼の本分は、南北戦争に出征して正負両面にわたる伝説的な武勇伝を残し、1871年に鉄道会社を設立して後に社長にまでなり、州議会選挙にうって出るほどの、企業家、政治家としての才にあった。時代の動きを機敏に見抜き現実を激しく生きる熱血漢であったが、晩年に鉄道会社の共同出資者の恨みを買って射殺された。南部歴史の専門家ジョエル・ウィリアムソン(Joel Williamson)は、黒人の血が混じった女性エメライン・レイシー(Emeline Lacy)との間に「影の家族」(shadow family)があったことを論証した。フォークナーの作品に登場するサートリス大佐(Colonel John Sartoris)のモデルで、「老大佐」("Old Colonel")と呼ばれるこの曾祖父に対し、祖父ジョン・ウェズリー・トンプソン・フォークナー(John Wesley Thompson Falkner, 1848-1922)は弁護士で、1895 年に州議会議員に当選し、ミシシッピ大学(University of Mississippi)の理事にも任命され、1910年にオクスフォード第1 ナショナル銀行(First National Bank of Oxford)を設立するほど、有能かつ堅実なタイプで、「若大佐」("Young Colonel")と呼ばれた。父マリーは一族が関わる鉄道会社に勤めて車掌から収入役にまで登り詰め、社長としてその事業を引き継ぐ夢を抱いていた。だが、1902 年にその会社を父ジョンが突然75,000 ドルで売却してしまった後は、オクスフォードに移り住み、貸馬車屋や金物店の経営などの事業を転々とした。しかし成功せず、1918年に父のコネでミシシッピ大学に事務員として就職し1930 年まで勤めた。奴隷として生まれたキャロライン・バー(Caroline Barr, 1840?-1940)が、1902 年から乳母役として、そして母方の祖母リーリア・バトラー(Lelia Dean Swift Butler[通称"Damuddy"], 1849-1907)も同年から、フォークナー家で一緒に暮らすことになった。1904年からは、父の妹メアリー・ホランド・ウィルキンズ(Mary Holland Falkner Wilkins, 1872-1946)が作家の祖父母の「大屋敷」(The Big Place)を切り盛りするようになり、彼女の活発な娘サリー・マリー(Sallie Murry Wilkins, 1899-1973)は、幼いフォークナー兄弟の恰好の遊び友だちとなった。 少年時代の彼は、野球や森の探索などのリーダー役として、屋外の活動に興じるごく普通の子供であった。父は一族の血筋としての強い飲酒癖を受け継ぎ、狩猟や釣りを楽しみ、息子にもその手ほどきをした。母は几帳面なタイプの意志の強い女性で、絵の才能があり読書を愛した。それゆえ、鉄道会社の仕事を失って以後テキサスで牧場を営むことを夢見る父と、その考えに断固反対し、家庭を堅固に守ろうとする母とは、性格も人生の趣味もかなり違った。こうして両親は、父のアルコールへの耽溺も手伝って緊張した夫婦関係を子供たちに見せることになった。彼は小学校6年生(1909年)頃から学業に専念しなくなり、中学校に入ってからは徐々に学校を欠席し始め、1914年には高校をやめ、翌年に復学したものの再度中退して、通常の進路からは逸脱してしまう。だが、幼友達で将来の妻となるエステル・オールダム(Lida Estelle Oldham[Faulkner], 1896-1972)とは、1915年頃には親密な間柄となる。 (3)思春期 1914 年にすでに詩作を始めた彼は、同郷出身でイエール大学(Yale University)法学部生だったフィル・ストーン(Phil Stone、フォークナーより4 歳上で後に郷里で弁護士になる)の知己を得て、文学好きのその先輩から書物や雑誌を貸与されたり指導を受け、現実逃避の姿勢と相まって、詩や散文の豊かな世界に目覚めていく。同時に、1915年秋には州内のデルタ(The Mississippi Delta)にあるストーンの父ジェイムズ・ストーン("General" James Stone)の狩猟キャンプで荒野の生活を体験したり、1916 年冬には祖父の銀行の帳簿係の助手を務めるなど、実社会の広い世界に参入する機会を少しずつ持ち始める。また秋には町にある州立のミシシッピ大学を頻繁に訪れるようになり、学生のサークル活動に興味を抱き、後に彼の最初の作家代理人となるベン・ワッソン(Ben Wasson)と知り合う。イギリス世紀末詩人スウィンバーン(Algernon Charles Swinburne, 1837-1909)らの影響を受けながら、ロマンティックな叙情詩の創作に熱を燃やす。翌年には大学年報『オール・ミス』(Ole Miss)にペン画の投稿を始め、一葉掲載される。エステルとは駆け落ち寸前のところまで行きながら、弁護士(1921年から北ミシシッピの連邦裁判所の主席検事)の彼女の父レミュエル・E・オールダム(Lemuel E. Oldham)や母リーダ・アレン・オールダム(Lida Allen Oldham)に結婚を反対され、ついに彼女は1918 年4 月に弁護士のコーネル・フランクリン(Cornell Franklin)と結婚してしまう。失恋の痛手や故郷脱出の願望、さらには前年にアメリカが参戦した第1次世界大戦における空の英雄への憧れもあって、同年春にフォークナーはまず合衆国の陸軍航空隊に志願し、細身で小柄(5フィート5インチ半)ゆえにはねられた後、イエール大学学生のストーンのいるコネティカット州ニューヘイヴン(New Haven)に行き、4月から約2ケ月間、当地のウィンチェスター連発銃製造会社に帳簿係として勤務する。6月にイギリス人になりすまし、姓の綴りも変えて英国空軍(The Royal Air Force)の面接に合格し、7月にカナダ(Canada)のトロント(Toronto)で士官候補生として教科訓練を受け始めたが、同年11月の終戦で戦場に出ることなく除隊される。いっぽう、海兵隊所属の2 歳違いの弟マリー(Murry Charles Falkner, Jr.[Jack])は、11 月にフランス北東部のアルゴンヌの森(The Argonne Forest)での戦闘で負傷している。 その年の暮れの帰郷時には、購入したイギリス将校の服を着込み、杖を突き、不自由な歩き方をして、名誉の負傷をした演技を故郷でしばらく続ける。ミシシッピの片田舎とは全く異質な外部世界を見た彼は、世紀末のダンディー風の気取りと、ボヘミアン的な生活スタイルとを仮面としてかぶり、翌1919年早々には州内を彷徨するだけでなく、メンフィス(Memphis)やニューオーリンズ(New Orleans)にも足を伸ばして、自己の帰属すべき居場所を模索する。春には第1詩集『大理石の牧神』(The Marble Faun)の母体となる詩を書き、8月には雑誌『ニュー・リパブリック』(New Republic)に、ステファン・マラルメ(St姿hane Mallarm*, 1842-98)などフランス象徴派詩人(French Symbolists)の影響のもとに創作した「牧神の午後」("L'Apres-Midi d'un Faune")を発表、第1次世界大戦後のGI法によって9月に特別学生としてミシシッピ大学に入学した彼は、フランス文学など興味のある授業にしか出なかったが、学生新聞『ミシシッピアン』(Mississippian)に短編第1 作「幸運な着陸」("Landing in Luck")や詩「サッフォー調」("Sapphics")などを発表し、少しずつ文学活動の場を広げていく。 (4)1920 年代 1920 年早々に、自身による手製の詩集『ライラック』(The Lilacs)をストーンに献呈し、春にはポール=マリ・ヴェルレーヌ(Paul-Mari Verlaine, 1844-96)の翻案詩4 編(5 編との説もある)を学生新聞に発表する。杖を突き、口ひげをはやし、高踏派を気取ったポーズゆえに傲慢で奇異な人物と見られ、学生たちから「薄才伯爵」("Count No 'Count")というあだ名をもらい、そうした姿勢や詩も新聞で揶揄される。9月に特別学生として再入学し、ワッソンたちと創設した演劇クラブと同名の『操り人形』(The Marionettes)という象徴派と世紀末のデカダン風の色彩の強い1幕ものの夢想劇を創作する。11月には大学をドロップアウトしたが、新聞に書評を発表し始める。翌1921年2月にもコンラッド・エイケン(Conrad Aiken, 1889-1973)の詩についての書評を載せ、夏には『春の幻』(Vision in Spring)というタイプ原稿による手製の恋愛詩集を、ハワイ(Hawaii)での結婚生活から帰郷中のエステルに献呈し、秋には同郷の作家でユージン・オニール(Eugene O'Neill, 1888-1953)とも関わりのある劇評家スターク・ヤング(Stark Young, 1881-1963)の勧めでニューヨーク(New York)に出て行く。グリニッチ・ヴィレッジ(Greenwich Village)に住みながら、後にシャーウッド・アンダソン(Sherwood Anderson, 1876-1941)の妻となるエリザベス・プロール(Elizabeth Prall)経営の書店で働く。 ストーンの再三の勧めで12 月に帰郷して大学構内の郵便局長職に就き、1924 年10 月に職務怠慢で退職になるまで勤務する。最初期の短編と推定される「月光」("Moonlight")、「青春」("Adolescence")、「愛」("Love")は1920 年代初期のこの頃に書かれたと考えられている。1922年明けにすぐ大学新聞にオニール劇などについての評論を発表し始め、3月に、後年の彼のヨクナパトーファ・サーガ(Yoknapatawpha Saga)の萌芽となる散文詩のような小品「丘」("The Hill")が掲載される。6月には、南部ルネサンス(Southern Renaissance)の気運の盛り上がりにより前年1 月にニューオーリンズで創刊された文芸誌『ダブル・ディーラー』(Double Dealer)に、6連詩の「肖像」("Portrait")が、ヘミングウェイの4行連詩「究極のところ」("Ultimately")と並んで載る。 1923年6月に、『春の幻』の改訂版ともいうべき、『オルフェウス及び他の詩』(Orpheus, and Other Poems)に関する出版交渉をボストン(Boston)のフォーシーズ社(Four Seas Company)と行なう。自己資金不足で断念するが、ストーンの交渉と資金援助で翌1924年12月に同社から、第1詩集『大理石の牧神』を公刊し詩人として立つ。社会活動として1920年夏に加わり、1924 年8 月にはその隊長にまでなった地区のボーイスカウトのポストを、どうやら飲酒が原因で10 月に解任される。 11 月にニューオーリンズのプロールを訪れ、彼女と結婚したばかりの当時の文壇の重鎮アンダソンとの知己を得る。12 月には第2詩集『緑の大枝』(A Green Bough)に12編中8編を改訂収録することになる『ミシシッピ詩集』(Mississippi Poems)を、小学校時代からの友だちマートル・レイミー(Myrtle Ramey)に献呈する。 1925年が明けると渡欧を目指してニューオーリンズに行き、アンダソンとの交遊を通して文芸家集団の活動の輪に加わる。半年の滞在中『ダブル・ディーラー』には、スウィンバーンからキーツ(John Keats, 1795-1821)らの詩人を経て、ハウスマン(A. E. Housman, 1859-1936)の『シュロップシャーの若者』(A Shropshire Lad,1896)へと辿った自己の詩人歴を著したエッセイ「古い詩と生まれつつある詩——ある遍歴」("Verse Old and Nascent: A Pilgrimage")や評論および詩を発表し、新聞『タイムズ=ピカユーン』(Times-Picayune)には、後年カーヴェル・コリンズ(Carvel Collins)が『ニューオーリンズ・スケッチズ』(New Orleans Sketches)としてまとめる、「神の王国」("The Kingdom of God")や「嘘つき」("The Liar")などの小品を発表したりして、この時期は詩人から作家に脱皮するための貴重な修業期間となる。アンダソンのような作家の優雅な生活ぶりに羨望して書き始めていた『兵士の報酬』(Soldiers' Pay)を5 月に完成し、彼の推薦を得てホレス・リヴライト(Horace Liveright)にタイプ原稿を送る。翌月にはニューオーリンズで知り合ったヘレン・ベアード(Helen Baird)に恋をし、1 年後に『ヘレン——ある求愛』(Helen: A Courtship)としてまとめる詩編を執筆する。7月に画家ウィリアム・スプラトリング(William Spratling)と一緒に貨物船で待望の渡欧を決行し、12 月に帰郷するまでの生活の大半はパリのセーヌ川左岸のリュクサンブール公園(The Luxembourg Gardens)近くで暮らし、第1次世界大戦の戦場跡や美術館を訪問するかたわら、未完に終わる長編『エルマー』(Elmer)の創作に取り組む。ジェイムズ・ジョイス行きつけのカフェで彼を垣間見たのが、文学サークルへの精一杯の接近という禁欲ぶりに比べ、ヘミングウェイは「失われた世代」(The Lost Generation)の代表格として、1922 年早々にパリに渡り、前衛的な芸術を称揚するパウンド(Ezra Pound, 1885-1972)やガートルード・スタイン(Gertrude Stein, 1874-1946)たちと華麗な交流を開始している。明けて1926年2月にはニューオーリンズに戻り、手書き原稿の寓意ロマンスの掌編『メイデイ』(Mayday)を恋人のベアードに献呈し、同月に第1 作の長編小説『兵士の報酬』をニューヨークのボーニ・アンド・リヴライト(Boni & Liveright)から出版する。アンダソンたちとの交友を再開し、彼らのボヘミアン的な生活をパロディ化した『蚊』(Mosquitoes)を夏の3 ヶ月で執筆、さらにスプラトリングが描いた当地の文人たちの似顔絵つきの『シャーウッド・アンダソンと他の有名なクレオールたち』(Sherwood Anderson and Other Famous Creoles)を12 月に出版し、その「序文」でアンダソンの素朴な文体を茶化したため、新旧両作家の親密な関係は急冷してしまう。 しかし、故郷に向き合うようにとのアンダソンの忠言を聞き入れて、年末から翌1927 年の初頭にかけて、片田舎を舞台に貧乏白人(Poor White)の新興一族を扱ったスノープス3 部作(The Snopes Trilogy)の萌芽となる中編『父なるアブラハム』(Father Abraham)を書きかけて脇に置き、同時並行で創作していた貴族階級の衰落の物語『土にまみれた旗』(Flags in the Dust)を9 月に完成する。これにより以後の創作の「金鉱」を探り当て、ヨクナパトーファという「私だけの小宇宙」("a cosmos of my own")(LG 255)を創造する大きな糸口をつかむ。この年の2月にエステルの娘ヴィクトリア(Victoria de Graffenreid Franklin)に手製の童話本『魔法の木』(The Wishing Tree)を献呈し、4 月にヘレンに捧げる『蚊』を第1 長編と同じ出版社から出したが、彼女は翌月に結婚してしまう。4 月末に起こったミシシッピ川(The Mississippi)の記録的な大洪水は、のちに『野性の棕櫚』(The Wild Palms)の題材として使われる。 『土にまみれた旗』の出版社への売り込みに難行苦行した末に、1928年2 月に友人のワッソンに作家代理人を依頼し、10月には出版社の提案に妥協して、ニューヨークの彼のところで約25 パーセントの削除作業に協力しながら、乾坤一擲の決意を秘めて春から執筆を開始していた『響きと怒り』(The Sound and the Fury)の草稿をタイプし修正加筆を行なう。小説作法のコペルニクス的転回をはかったこのモダニズム(Modernism)文学の典型的な傑作で、南部の地方作家からアメリカ文学を代表する作家として世界の檜舞台に躍り出る。前年の後半と同じく、長編小説の合間を縫って短編(short stories)の執筆にも専念する。 翌1929 年1 月に、アンダソンへの献辞を付し『土にまみれた旗』を『サートリス』(Sartoris)と改題してニューヨークのハーコート・ブレイス(Harcourt, Brace)から出版する。この『土にまみれた旗』(オリジナル版は、ダグラス・デイ[Douglas Day]の「序文」を付し、1973 年にランダム・ハウス[Random House]から刊行)が、ヨクナパトーファ・サーガと呼ばれる彼の架空の王国の物語の実質的な出発作であった。ちなみに「ヨクナパトーファ」とは、歴史家ドン・H・ドイル(Don Harrison Doyle)の解釈では「引き裂かれた土地("land divided" or "split land"[Doyle 24])」を意味するチカソー・インディアン(Chickasaw Indians)の言葉だが、作者自身は、そのインディアンの言葉で、「水が平坦地をゆっくり流れる("water flowing slow through the flatland)」(LG 134)という意味だと、1955 年8 月の訪日時に説明している。この1929 年早々にオリジナル版『サンクチュアリ』(Sanctuary)の執筆に向かう。エステルが帰郷するたびに会っていた彼は、母親の反対を押し切り、エステルが4月に正式に離婚するのを待って、6 月20 日にオクスフォード郊外のカレッジ・ヒル・プレズビテリアン教会(College Hill Presbyterian Church)で結婚式を挙げ、パスカグーラ(Pascagoula)へ新婚旅行に出かける。10月に「最も勇壮で最も壮大な失敗作」(FU 61)と自ら呼ぶ『響きと怒り』をニューヨークのケープ・アンド・スミス(Cape & Smith)から出版すると、ミシシッピ大学の発電所の夜勤をしながら、多数の内的独白(interior monologue)で構成した『死の床に横たわりて』(As I Lay Dying)の執筆に専心し、翌1930年明けにはそのタイプ原稿を完成する。 (5)1930 年代 家庭人としての責任感と、南北戦争前の古い館(ケルト文化の伝説で、魔除けの力があると信じられている木にちなんで、「ローワン・オーク」[Rowan Oak]と名づける)を購入した借金返済のためもあって、この時期から2 年間にわたり「短編送付一覧表」を作って、『サタデイ・イヴニング・ポスト』(Saturday Evening Post)などの雑誌への投稿実績(42編中30編掲載)を記しながら、猛烈な勢いで短編の創作にも本腰を入れ始める。4 月に『フォーラム』(Forum)に「エミリーへの薔薇」("A Rose for Emily")が掲載され、短編作家としての力量も公に認められるようになる。この短編を皮切りに、プリンストン大学教授モーリス・クワンドロー(Maurice-Edgar Coindreau, 1892-1990)訳で、フランスでも1932 年から紹介され始める。10 月に『死の床に横たわりて』をケープ・アンド・スミスから出版し、暮れにオリジナル版『サンクチュアリ』に大幅な改訂を施して、翌1931年2月に同社から世に問う。この年の1 月に生まれた長女アラバマ(Alabama)が5 日(9 日説もある)で生を閉じた時の悲嘆は激しかった。しかし、それに屈することなく、8月には『八月の光』(Light in August)の創作に向かい、翌月には「紅葉」("Red Leaves")などを含む第1短編集『これら十三篇』(These 13)をケープ・アンド・スミスから出版、10 月にはヴァージニア州(Virginia)シャーロッツヴィル(Charlottesville)での南部作家会議に出席し、アンダソンとも再会する。こうして作家としての認知度は増していったが、エステルとの結婚生活は必ずしも楽しいものではなく、頻発する不和で夫婦はお互いに飲酒癖を募らせていく。この飲酒癖は、ヘミングウェイやフィッツジェラルドの場合と同じように、生涯彼につきまとう難題となる。 1932年3 月にモダン・ライブラリー(Modern Library)版の『サンクチュアリ』を刊行し、その「序文」で「金儲けのため」とか、「最も恐ろしい物語」をもくろんだと執筆動機を率直に述べて、ポットボイラー(potboiler)的な扇情作品という誤解を招いたが、この小説が彼の作品中ではベストセラーとなる。しかし、ヘミングウェイのようには売れない作家の悲哀で、経済的困窮を解決する窮余の策として5月に週給500ドルでハリウッド(Hollywood)の台本書きの仕事を始める。これ以後、1945 年まで長短10 回滞在することになる華やかで異質な世界は、戦争もののジャンルを含めて映画的手法を彼に教え、また結婚生活や深南部の片田舎の日常からの息抜きの場所ともなる。映画監督ハワード・ホークス(Howard Hawks,1896-1977)と知り合いになり、終生続く良好な関係を築く。8月に父が亡くなり、経済的負担が旧家の一族の長としての彼の肩に今後ますますかかることになる。前年にランダム・ハウスから「砂漠の牧歌」("Idyll in the Desert")を限定出版したように、6 月にテキサス・ブック・クラブ(Book Club of Texas)から「ミス・ジルフィア・ガント」("Miss Zilphia Gant")を限定出版し、10 月には新設のスミス・アンド・ハース(Smith & Haas)から『八月の光』を刊行する。 長女アラバマの死に対する悲嘆は、1933 年6 月のジル(Jill Faulkner)の誕生によって癒される。その年の初めにオクスフォード(Oxford)郊外で退役軍人でプロの曲芸飛行士ヴァーノン・オムリー(Vernon Omlie)より飛行(aviation)訓練を受け、自家用機ウェイコー(Waco)を購入するほどのめり込む。4月に44編を収録した第2詩集『緑の大枝』をスミス・アンド・ハースから出版、この前後に、彼の短編「急旋回ボート」("Turnabout")を映画化した『今日限りの命』(Today We Live)と、『サンクチュアリ』の映画版『暴風の処女』(The Story of Temple Drake)が封切られる。12月にベン・ワッソンから彼の同僚だったモートン・ゴールドマン(Morton Goldman)に作家代理人が交替。 1933 年の秋から暮れにかけて、スノープス(Snopes)一族の物語と「尼僧への鎮魂歌」("Requiem for a Nun")と題する短編小説を手掛けていたが、翌1934年早々にはそれらを脇に置き、『響きと怒り』で自殺したクエンティン(Quentin Compson Ⅲ)を語り手(narrator)とし「暗い家」("Dark House")と題して、『アブサロム、アブサロム!』(Absalom, Absalom!)に直結する小説を書き始める。2 月にニューオーリンズのシューシャン空港(Shushan Airport)の落成式で起こったショーの事故の翌日、オムリーと同市に飛ぶ。4月には「ウォッシュ」("Wash")を含む14編を収録した第2短編集『ドクター・マーティノ、他』(Doctor Martino and Other Stories)をスミス・アンド・ハースから出版し、すぐさま南北戦争にまつわる一連の短編の創作に向かい、7 月には3 週間、ハリウッドで週給1,000 ドルでホークスと一緒に脚色の仕事にたずさわる。暮れには曲芸飛行士たちの根無し草的な生活を描いた『標識塔<パイロン>』(Pylon)の原稿を完成し、翌1935 年3 月にはスミス・アンド・ハースから出版する。前月には執筆中の『アブサロム、アブサロム!』を担保に同社から2,000ドルの前借りをする。経済的逼迫に苦しんでいたフォークナーは、1935年12月にハリウッドの20 世紀フォックス(Twentieth Century-Fox)社で週給1,000ドルの好条件で雇われ、『永遠の戦場』(The Road to Glory)の脚本を共同執筆する。この頃から秘書兼台本書きの同郷出身のミータ・カーペンター(Meta Carpenter, 1908-94)と知り合い、断続的にそれ以後15 年間続く深い関係ができ、 そのロマンスは『エルサレムよ、我もし汝を忘れなば』(If I Forget Thee, Jerusalem、The Wild Palmsの原題)の執筆に大きな影響を与えている。しかし、11月には結婚したばかりのプロ飛行士で10歳違いの末弟ディーン(Dean Swift Faulkner)が、彼から譲り受けた飛行機でショーの最中に墜落死する。深い罪悪感と道義的責任を感じたフォークナーは、翌年3月に生まれる弟の娘ディーンの教育の面倒を以後見る。 1936年1月に『アブサロム、アブサロム!』を完成すると翌月には20世紀フォックス社に戻り、5月の一時帰郷をはさんで7月に妻子を伴ってハリウッド暮らしを始め、10ヶ月ほど一緒に生活する。後に、フォークナーは「映画の仕事の困ったところは、時間の浪費というよりは、むしろもとのまともな生活に戻るのに時間がかかるということだ」(SL 90)と述懐している。10 月にスミス・アンド・ハースを買収したランダム・ハウスから、過去と現在の絡まりを複雑な語りで描いた雄大な作品『アブサロム、アブサロム!』を刊行する。これ以後の彼の長編小説はすべて同社から出版されることになる。 翌1937 年4 月にはミータ・カーペンターがオーストリア移民のコンサート・ピアニスト、ウォルフガング・レブナー(Wolfgang Rebner)と結婚して、彼女との関係は1942年の彼女の離婚まで中断する。春に妻子が帰郷したのに続き、9月に彼も郷里に戻り、すぐ『エルサレムよ、我もし汝を忘れなば』の執筆に取りかかる。翌月ニューヨークでランダム・ハウスの編集担当者サックス・コミンズ(Saxe Commins, 1892-1958)や先輩作家アンダソン、さらにレブナー夫妻とも会うが、11月には泥酔してホテルの浴室のスティームパイプで大やけどをする。 その年の暮れと翌1938 年2 月に、ローワン・オーク邸に隣接する 「ベイリーの森」(Bailey's Woods)と、町から北東17マイルのところに「グリーンフィールド農場」(Greenfield Farm)を購入し、旧家の長としての気概を示す。同月には南北戦争ものの7 短編を複合した小説『征服されざる人びと』(The Unvanquished)をランダム・ハウスから発表し、同時にその映画権をMGM(Metro-Goldwyn-Mayer)に25,000 ドルで売却する。5 月にはアメリカ作家同盟(The League of American Writers)の一員として、1936 年から進行中のスペイン内戦(The Spanish Civil War)について、反フランコ(Franco)・反ファシズムを表明する(ヘミングウェイは1937年に戦争特派員としてスペインに渡り、資金集めのために『スペインの大地』[The Spanish Earth]というプロパガンダ映画を作成)。11月から作家代理人がハロルド・オーバー(Harold Ober)に交替。翌月ロ バート・K・ハース(Robert K. Haas)宛の手紙で、スノープス3部作についての全体構想を明かす。1939年1月に、『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath, 1939)の作者ジョン・スタインベック(John Steinbeck, 1902-68)や、『子鹿物語』(The Yearling, 1938)の作者マージョリ・キナン・ローリングズ(Marjorie Kinnan Rawlings, 1896-1953)と一緒に、アメリカ芸術家協会(National Institute of Arts and Letters)会員に選出される。同月にランダム・ハウスから出版した対位法を構成原理とする二重小説『野性の棕櫚』(『エルサレムよ、我もし汝を忘れなば』を改題したもの)が出版され、3 月には『サンクチュアリ』の販売数を追い抜くことになる。フランスではジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre,1905-80)の『響きと怒り』論が、前年の『サートリス』論("Sartoris, par William Faulkner")についで発表されて、正当なフォークナー評価の気運が起こりつつあったが、本国アメリカでもジョージ・マリオン・オドーネル(George Marion O'Donnell)やコンラッド・エイケンの本格的な論考が出て、徐々に評価が高まる気配が出てくる。9月にドイツ軍のポーランド侵攻により第2 次世界大戦(World War Ⅱ)が勃発。 (6)1940 年代 1940年明けに38年間フォークナー家に仕えた黒人乳母キャロライン・バーがローワン・オークで亡くなり、葬儀で弔辞を読む。4月に『父なるアブラハム』を基軸に既発表の短編を織り込んだ『村』(The Hamlet)をランダム・ハウスから出版する。このスノープス3 部作の第1 作は、深南部の社会機構の最下層にいる分益小作人(sharecropper)の典型であるスノープス一族への作者の積年のこだわりを形象化し、没落貴族階級とは別の世界をフォークナー文学地図に織り込む。翌月ハース宛の手紙で、「我々は何という時代に直面しているのか」(SL 125)と、世界大戦の深刻な進展に憂慮する。 経済的困窮と出版社との前渡し金交渉への不満からヴァイキング・プレス(Viking Press)に鞍替えすることも考えたが、ランダム・ハウスのベネット・サーフ(Bennett Cerf)の説得で思い留まる。この年の後半から翌1941年いっぱいをかけて、『行け、モーセ』(Go Down, Moses)を構成する短編・中編を雑誌に発表しながら、全体的に仕上げる。 1942年5月にランダム・ハウスから出版されたタイトルが、『行け、モーセ、その他の短編』(Go Down, Moses and Other Stories)とされたことにショックを受け、『征服されざる人びと』や『野性の棕櫚』の構成原理と同じ意味で、『行け、モーセ』も小説であることを主張して、1949 年刊行の2 版では「その他の短編」を削ることを要請する(SL 284-85)。『響きと怒り』を出版した1929 年から『行け、モーセ』出版の1942 年までが、いわゆる作家としての創作最盛期で、実際デーモンにとりつかれたかの如く、驚異的なペースで傑作群を輩出してきた。しかし、この1942年には経済的にいっそう窮乏したため、3月頃には年収3,000 ドルで正規の中尉になろうと行動にまで移すが、44 歳の彼はワシントンの航空局に応募段階で拒否される。 そこで7 月にワーナー・ブラザーズ(Warner Brothers)と週給300 ドルで7 年契約を結ぶが、その結果すべての執筆物は映画会社に帰すという苛酷な条件に苦しむことになる。1946年3月にランダム・ハウスの援助で契約を解かれるまでの3年半、制作はされなかった『ド・ゴール物語』(The De Gaulle Story)や『バトル・クライ』(Battle Cry)などの台本を書き、ホークスが監督を務めたヘミングウェイ原作『持つ者と持たぬ者と』(To Have and Have Not, 1937)(邦題『脱出』)の脚色の手伝いをする。ランダム・ハウスのスタッフ宛にこぼしているように、「売れ筋の安っぽい作品を書く(pot boil)か、ハリウッドという厳しい仕事場(the salt mine)に戻るかのどちらか」(SL 188)しか、経済的苦境を乗り越える選択肢がこの時点ではなかったのである。 1943年10月に「第1次世界大戦下でのキリストの再臨」というハリウッドの映画監督ヘンリー・ハサウェイ(Henry Hathaway)の着想をヒントにして、「戦争の弾劾」(SL 178)を意図した「寓話」をフランス戦線を舞台に「誰?」("Who?")というタイトルのもとに書き始める。これを胚種とする『寓話』(A Fable)の完成には苦渋を強いられ、その原稿末尾に記された日づけ「1944年12 月—1953年11月」が示すように、ほぼ10年の歳月を要することになる。 1944 年2 月に、『サンクチュアリ』以外の本が絶版状態になって世間から無視されている嘆かわしい状況を改善するために、マルカム・カウリー(Malcolm Cowley, 1898-1989)が『ポータブル・ヘミングウェイ』(The Portable Hemingway, 1944)と同じスタイルのフォークナー版の編纂を企画し、以後2 年間、両者は貴重な資料となる書簡(FCF)のやりとりをする。ハリウッドに2 月から滞留中の彼のもとに、6 月下旬から9 月上旬まで妻子が合流する。8 月にはホークス監督のために、レイモンド・チャンドラー(Raymond Chandler, 1888-1959)のハードボイルド推理小説The Big Sleep(邦題『三つ数えろ』)の脚色をする。年末に出版社ダブルデイ(Doubleday)から5,000 ドルでミシシッピ川についての本の執筆の依頼を受けたが、未練を残しつつも、「私は47歳で、書きたいものがもう3冊あります」(SL 187)という理由で断る。 1945 年6 月から約3 ヶ月間、ハリウッドに最後の奉公に出かける。契約から解放された直後、「あの西海岸のいまいましい場所によって、私の魂が、案じていたほどには安っぽくならなかったのは本当に嬉しいことです」(SL 205)との感慨をカウリーに漏らしている。彼から「フランスの若者にとって、フォークナーは神様です」(FCF 24)というサルトルの評価を聞く。10 月には『響きと怒り』の「付録——コンプソン一族」("Appendix: Compson")となるコンプソン(Compson)家の家系誌をカウリーに送る。 1946年4月にフォークナー再評価の機運を盛り上げた画期的なアンソロジー『ポータブル・フォークナー』(The Portable Faulkner)がヴァイキング・プレスから出版される。編者カウリーは、フォークナー文学を「ヨクナパトーファ郡のサーガ1820-1945」だと読み解き、その特徴を北部対南部という観点から南部の伝説をテーマにしたものと解釈する優れた序文をつけた。このアンソロジーと序文に対して、ロバート・ペン・ウォレン(Robert Penn Warren, 1905-89)は書評でそれを高く評価しつつも、「フォークナーの描く伝説は単に南部の伝説というだけでなく、われわれ全般の苦境と問題の伝説でもある」(FCF 93)との深い洞察に満ちた見解を発表する。この時期からヘミングウェイとフォークナーの評価と地位が逆転してくる。「今やアメリカは少なくとも軍事面と経済面において、西欧文明の擁護者になったのである。明らかにこの圧倒的な変化は、政治的にはアメリカの新しいイメージに関わってくる。そこで生まれた1つの認識は、アメリカに存在する類いの民主主義は、本質的で積極的な価値を持っているということ、つまり、(中略)ソ連の全体主義(Totalitarianism)に対抗して防衛しなければならないものであるということである」(Schwartz 140)——戦後に生まれたこのような冷戦構造の中で、彼はアメリカ文学を代表する顔として期待され、そうした作家としての名声を受け始める。11 月には地元の友人たちと年次行事となっている狩猟に参加する。 1947 年4 月開催のミシシッピ大学の英文科の学生との質疑応答の中で、同時代作家についての彼自身の評価を問われて、1 位トマス・ウルフ(Thomas Wolfe, 1900-38)、2 位フォークナー、3 位ドス・パソス(Dos Passos, 1896-1970)、4位ヘミングウェイ、5位スタインベックとランクづけを行ない、冒険をする勇気がないと評定されたヘミングウェイから猛烈な怒りの抗議を受け謝罪する。1948 年早々に苦吟する『寓話』の執筆を一時止め、アメリカを代表する作家との期待に応えるために、『墓地への侵入者』(Intruder in the Dust)を3ヶ月で完成する。それを9月末にランダム・ハウスから刊行するが、その作品の映画権が MGM に 50,000 ドルで売却され、翌年春に郷里にロケを張って撮影される。8月には近郊のサーディス湖(Sardis Lake)で自家製のボートを走らせる。11 月にアメリカ芸術院(American Academy of Arts and Letters)会員に選出される。 1949 年夏に女学生ジョーン・ウィリアムズ(Joan Williams, 1928-2004)の訪問を受け、それ以後、作家志望の彼女の努力を援助し、『尼僧への鎮魂歌』(Requiem for a Nun)の共同執筆を劇形式で試みるほど、2 人の関係は親密になるが、1954年3月の彼女の結婚と、ジーン・スタイン(Jean Stein)というジャーナリスト志望の若い女性の出現によって、ジョーンとの関係は止む。11月に探偵ものの短編集『駒さばき』(Knight's Gambit)をランダム・ハウスから出版する。 (7)1950 年代 1950年6月にアメリカ芸術院より、5年毎に傑出した作品に贈られるハウエルズ・メダル(Howells Medal)を授与される。8月に自らがテーマ別に編纂し42 編を収録した第3短編集『短編集』(Collected Stories of William Faulkner)をランダム・ハウスから刊行する。前年には満場一致でなかったために見送られた1949年度ノーベル文学賞(The Nobel Prize)を受賞し、12月に娘ジルとストックホルムに飛び、人間精神の栄光の支えとなる作家の責務をうたった格調高い受賞演説を行なう。その時にスウェーデン(Sweden)のエルサ・ヨンソン(Else Jonsson, 1914?- )と知り合う。 1951年2月に中編『馬泥棒についての覚え書』(Notes on a Horsethief)を、州内のグリーンヴィル(Greenville)のレヴィー・プレス(Levee Press)より限定出版し、翌月には前年出版の短編集で全米図書賞(The National Book Award)を受賞する。同時にホークスの要請を受けて週給 2,000ドルでハリウッドでの最後の仕事となる台本書きをする。4月にはイギリスの出版社チャトー・アンド・ウィンダス(Chatto & Windus)を訪問後、『寓話』の舞台確認のため、フランスの第1 次世界大戦の激戦地ヴェルダン(Verdun)を見学する。9 月に『尼僧への鎮魂歌』をランダム・ハウスから出版したが、ミシシッピ大学出身の女優ルース・フォード(Ruth Ford)を主演として舞台化するために、夏にはニューヨーク、秋にはマサチューセッツ州ケンブリッジで同作品の脚色の仕事をする(ただし、結局この企画は実現しなかった)。10 月にはフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章(Legion d'honneur)を受章。 翌1952年5 月にフランス政府企画の「20世紀文学祭」(The Festival: "CEuvres du XXe Siecle")の招待でパリを訪問し、作家会議などに出席して講演を行なう。3月の落馬で痛めた背骨痛の悪化で9月にメンフィスの病院に入院、翌月には自宅の階段から落ちて入院、再度12 月に背骨痛で入院と、度重なる治療と過度の飲酒癖との複合作用で心身の疲労が重なっていく。1953 年明けから10月まで断続的にニューヨークに滞在し、自ら「最後の主要な野心作」(SL 348)と呼ぶ『寓話』の完成に心血を注ぐ。ジョーン・ウィリアムズ宛の手紙で、「私は、自分がすごい才能に恵まれていたことを今初めて実感しています。正規の教育も受けず、文学仲間どころか教養のある仲間もいないのに、ここまで成し遂げたとは」(SL 348)と誇らしい感慨を吐露する。 同1953年6月にマサチューセッツ州の娘ジルの短大の卒業式で挨拶し、『アトランティック・マンスリー』(Atlantic Monthly)に「シャーウッド・アンダソン——ある鑑賞」("Sherwood Anderson: An Appreciation")を発表する。年末に『ピラミッド』(Land of the Pharaohs)の映画化についてのホークスの要請でスイス(Switzerland)に渡り、以後パリやカイロなどを訪問して翌1954 年4 月末に帰郷する。スイスではジーン・スタインと知り合う。同月に半自伝的エッセイ「ミシシッピ」("Mississippi")を『ホリデイ』(Holiday)に発表し、長短の代表作の選集『フォークナー・リーダー』(The Faulkner Reader)をランダム・ハウスより刊行、さらに8月には苦吟の結晶体である『寓話』を同社から出版する。同月、国務省の要請によりサンパウロ(S黍 Paulo)の国際作家会議に参加、続いて愛娘ジルの結婚式に出席。相手はウェスト・ポイント(West Point)出身で弁護士となるポール・ディルウィン・サマーズ・ジュニア(Paul Dilwyn Summers, Jr.)。9月からは故郷とニューヨークとの往復というあわただしい生活を送ることになる。フォークナーには「私の私生活と顔写真は、私のものなので、これからもずっと守る」(SL 319)という信念があったが、ロバート・コグラン(Robert Coughlan, 1914-)による前年の『ライフ』(Life)の記事に続いて、コグランによる私生活の暴露本(The Private World of William Faulkner)が出たことに激怒し、「現代アメリカでの生活において最も恐ろしいものの1 つである報道の自由」(SL 366)に対する抗議を込めて、翌1955 年4 月『ハーパーズ』(Harper's)に「プライヴァシーについて」("On Privacy")というエッセイを発表する。 マスコミのプライヴァシー侵害は、フォークナーがノーベル賞作家、アメリカ文学を代表する作家という注目度の高い地位に登り詰めたことの証でもあり、再度1955年にも国務省の要請により半ば文化大使の役割を担って、8月に東京と京都の訪問の他に長野セミナー)に出席後、マニラ、ローマ、パリ、アイスランドなどを歴訪し、会議などに参加する。こうした公式行事と並行して、54年に公立学校における人種分離教育に対し最高裁が下した違憲判決(Brown vs. Board of Education of Topeka Decision)を契機に、南部を中心に吹き荒れ始めた人種統合問題に関わり始める。南部の同胞には黒人の自由と平等を認めることを嘆願し(ESPL 146-51)、北部に向かっては南部が外圧によるのではなく自らの力で解決する意志と必要性があることを訴え(ESPL 86-91)、黒人には性急にならずに("go slow")柔軟な姿勢で状況を変革することの忍耐を説く(ESPL 107-12)という姿勢は、その中道的な穏健さゆえに、北部のリベラル派や黒人からも、逆に兄弟を含めた南部郷土の人々からも賛同を得られず、脅しの手紙や電話まで受ける羽目になり、身辺がにわかに緊迫度を増してくる。心労が重なる中で10月には狩猟物語集『大森林』(Big Woods)をランダム・ハウスから刊行し、暮れにはスノープス物語の第2作『町』(The Town)の執筆に着手する。 1956 年の『パリ・レヴュー』(Paris Review)春季号にジーン・スタインとの質的に充実したインタヴューが掲載され、3月にはヴァージニア州シャーロッツヴィルに在住する娘夫婦に息子ポール(Paul Dilwyn Ⅲ)が誕生、9月にはカミュ(Albert Camus, 1913-60)脚色の『尼僧への鎮魂歌』がパリで上演される。アイゼンハワー(Dwight David Eisenhower, 1890-1969)大統領政権の肝いりで始まった「民間交流計画」(A Program for People-to-People Partnership)という、アメリカ的価値観を称揚し対外的に宣伝する目的のこのプログラムの議長職に請われて着任し、スタインベック(John Steinbeck, 1902-68)などの作家を結集して議論沸騰後に報告書を提出したが、3 ヶ月後には身を引く。1957 年2 月から6 月の間、ヴァージニア大学(University of Virginia)在住作家(Writer-in-Residence)となり、英文学科のフレデリック・L・グウィン(Frederick L. Gwynn)とジョーゼフ・L・ブロットナー(Joseph L. Blotner)が世話役としてクラス会談などを行なう。3 月にギリシャを訪問し、5月には『町』をランダム・ハウスから出版する。同月から4ヶ月間プリンストン大学で、ジェイムズ・B・メリウェザー(James B. Meriwether)の教示で、「ウィリアム・フォークナーの文学歴」("The Literary Career of William Faulkner")という書誌的展示会が開催される。 1958 年2 月から5 月の間、ヴァージニア大学で2 期目の在住作家となり、秋には当州の富裕な収集家リントン・R・マッシー(Linton Reynolds Massey)と交誼を結び、格式の高いファーミントン狩猟クラブ(Farmington Hunt Club)にも参加して乗馬に興ずる。この年には『標識塔<パイロン>』を脚色した映画、The Tarnished Angels(邦題『翼に賭ける命』)と、『村』を大幅に改編し脚色したThe Long, Hot Summer(邦題『長く熱い夜』)が封切られる。本年から翌1959 年にかけて、ランダム・ハウスのアルバート・アースキン(Albert Erskine)とメリウェザーが遂行するスノープス3部作上の不整合や矛盾を取り除く作業に協力するが、結局は59 年11 月にランダム・ハウスから刊行の最終巻『館』(The Mansion)の巻頭に、「《生きていること》は動きであり、《動き》とは変化である」がゆえに、そうした不整合や矛盾は著者が1925 年から34 年間かけて人間の心や苦境について学んだ結果起こったもので、著者自身よく承知している旨の「覚え書」を付すことで決着する。1959年1月にかつての導師役だったフィル・ストーンが、フォークナーの献呈本などの関係資料をテキサス大学(University of Texas)に売却したことに悲憤する。3月に落馬して鎖骨を折る。6月に第1次資料をプリンストン大学からヴァージニア大学に移管し、大学近隣に家を購入する。10月から2ヶ月間、同大学オールダマン図書館(Alderman Library)で、マッシーが企画構成した展示会「ウィリアム・フォークナー——人と業績 1919-1959」("William Faulkner: Man Working, 1919-1959")が開催される。 (8)最晩年 1960年にはオクスフォードとシャーロッツヴィルとを往復する二重生活をし、10月に郷里で兄弟たちと88歳の母の死を見届ける。1961 年明けには全原稿類を「ウィリアム・フォークナー財団」(The William Faulkner Foundation)に遺贈し、娘ジルをその財団のメンバーおよび遺言執行者とすることを明言する。この財団は後に、ラテン・アメリカの作家を援助し、ミシシッピ州の黒人の教育推進を支援する活動も目的として含むことになる。4月に国務省の要請でヴェネズエラ(Venezuela)を訪問する。2 年前に「『館』でもって、私が計画していた仕事の最後をやり終えました」と書簡で述べたが、「突如として熱くなった」(SL 455)勢いを借りて『自動車泥棒』(The Reivers)の原稿を完成する。1962年1月には再度落馬して入院する。4月に妻と娘夫婦と一緒にウェスト・ポイントに招かれ、質疑に応答し、『自動車泥棒』の1 節を朗読する。5 月に全米文芸協会(アメリカ芸術院)金メダル(Gold Medal of the National Institute[American Academy]of Arts and Letters)をユードーラ・ウェルティ(Eudora Welty, 1909-2001)より受ける。6月に生前最後の作品『自動車泥棒』をランダム・ハウスから出版し、7月6日、メンフィスに近いバイヘーリア(Byhalia)の病院で心臓発作で64歳の生涯を閉じる。翌日、ウィリアム・スタイロン(William Styron, 1925-2006)らが参列した葬儀が営まれ、一族が眠るオクスフォードのセント・ピーターズ墓地(St.Peter's Cemetery)で深い眠りについた。 (『フォークナー事典』より。執筆者:田中久男) |
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